たちまちWASABI

NYC郊外暮らしラプソディ~アートと自然と一緒に

息子のお誕生日会は和洋折衷

昨日は息子の3歳のお誕生日。
同じ郡内に住む夫の両親を我が家へ招いて、一緒にバースデーランチでお祝いしました。

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ランチのメインには、夫がBBQでハンバーガーを用意すると張り切っていたので、私はサイドディッシュを担当。
何にしようか...
庭で採れた野菜だと喜んでもらえるかな...
と考えていると、夫より「せっかくだから、和食を」のリクエストが入りました。

夫の両親はどちらもヨーロッパ系のアメリカ人で、今は二人とも定年退職後でのんびりしていますが、昔は国内外で転勤などあり、異文化に触れて多国籍なお料理に出会うことも多々あったそうです。
そのため、夫同様に、異国の食文化にもオープンで、私が作る和食にも興味を持ってくれています。

「レストランみたいなのじゃなくて、いつもうちで食べてる、家庭的なタイプの和食がいいと思う♪いくつか作って、味見感覚で少しずつ食べるかんじでもいいんじゃん♪」と、夫。

ようするに、私がいつも作って出している、イナカ家庭料理もしくは"ツマミ"になるおかずの類が良いってことか。
ならば!と、お言葉に甘えて、メインのハンバーガーと合う/合わないなんてことも気にせず、レシピさえ無い『いつもの家メシ』をサイドに用意しました。


庭で採れたきゅうりとわかめの和えたやつ

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味付けは、ごま油とポン酢+もう少しお酢
きゅうりが大好きな息子がバリバリ食べてくれるし(その姿はカッパのよう)、サラダ感覚で簡単なので、この夏はもう何度リピートしたことやら。
きゅうりは我が家の毎年のガーデニングに欠かせません。


Bush bean(インゲン豆)の胡麻和え

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このbush beanも庭の畑から。
きゅうりに続いてこっちもゴマになっちゃったけど、これも夫や息子が大好きで手軽なので、両親にもお試しいただく。


ひじき入り炒り豆腐

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豆腐は一般スーパーでも売られているし、ヘルシーなイメージでベジタリアンにも人気なこともあり、アメリカでも市民権を得たおなじみの食材です。
でも、それをイマイチどのように調理して良いのかワカラナイ...という声もあるみたい。
干しシイタケとひじきで地味だけど...うま味はしっかりなので、これも息子が大好きな我が家の定番の一つ。


庭からの採れたてで、焼き茄子

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今年、はじめて我が家の庭は「茄子のあたり年」。
これまで途中で苗がダメになったり、実りかけたものが何者か(動物)に食べられたりと、なかなか満足いく収穫に至らなかった茄子だけど、今年は好調♪
ちょうど元気に育った茄子が収穫できたので、両親にも味わってもらおうと、ここはやっぱり焼き茄子で。たっぷり鰹節をのせて。

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ちょうど採れたての新鮮お茄子♪


そして、メインは夫担当のチーズバーガー。

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いつものように最後にウッドチップでスモークしたお肉は香ばしく、BBQならではの味わいです。


ちょっとずつでもガッツリでも「お好きなのをお好きなだけどうぞ」と、全て大皿盛りで出させてもらった和風サイドディッシュは、夫両親にもとても好評でした。
とくに、気に入ってもらえたのは、焼き茄子。
味付けもしない焼いただけの茄子に鰹節がたんまりかかって、生姜を添えて醤油たらして... なんてハードルが高すぎかなぁ...と思っていたけど、なんのその。
茄子に詰まったおいしさは食文化の垣根を超え、世界共通のようですよ♪


ダディが焼いたバーガーと、マミーのサイドディッシュで、和洋折衷・多国籍なランチ(メニューにまとまりがないのは、我が家ではいつものこと...)を終えたバースデーボーイの息子。
おじいちゃんおばあちゃんからもお誕生日プレゼントをたくさんもらい、お誕生日の特別デザート、その丸いお顔にも負けないくらい大きなクッキーを頬張り、あとは幸せにお昼寝タイムとなりました。

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夫婦だけでは誕生日も記念日もバレンタインも...あまり特別な事をしない我が家。
お互いイベント事を計画するのが苦手でなにも盛大なことなど無いこんな親ですが、息子には思い出になることをしてあげられればと思っています、ささやかながらも。
そう思い両親を交えてのバースデーランチでは、私達にも思い出ができたし、かわいい孫をお祝いできて両親も楽しんでくれたし、息子も大好きなおじいちゃんおばあちゃんが遊びに来てくれて嬉しそうでした。

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みんな楽しめて、お誕生日だった♪
また一年、元気なご機嫌君で過ごしておくれ。 

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アメリカ出産思い出話~⑩皆それぞれのお産と育児

※2017年にロックランド郡NY州で息子を出産した時のことを書いた思い出話です。

前回までの話:
アメリカ出産思い出話~①産休そして陣痛で病院へ
アメリカ出産思い出話~②廊下をぐるぐるウロウロ、分娩室へ
アメリカ出産思い出話~③氷のかけら、期待のかけら、長丁場に消えて行く
アメリカ出産思い出話~④プッシュ!プッシュ!プッシュ!
アメリカ出産思い出話~⑤緊急オペ、母子ともに危険
アメリカ出産思い出話~⑥人生で一番痛い
アメリカ出産思い出話~⑦改めて息子に対面、アメリカのおくるみ事情
アメリカ出産思い出話~⑧帝王切開産後の入院3日間
アメリカ出産思い出話~⑨退院の日、病院ガウンとさよなら


こうして辿り着いた、我が家から車で10分少々の夫の実家。
退院後2週間ほど、病院帰りの二人+新生児一人を転がり込ませてくれた実家の助けにも大変感謝です。

産後って...
体の回復のために~、
手術後の回復のために~、
母乳を出すにはストレスを減らしてしっかり休んでゆったりと~、
なんて周りから言われても、ゆっくり眠る時間なんて無いし、なかなかそう出来るない日々の到来です。

実家のサポートのおかげで、私は家事の心配をすることなく子供のお世話をしておけばよい環境にあり、とても助けに恵まれていたけど、
それでも、授乳して足りない分をミルクで補って...オムツ替えて...寝かしつけて...搾乳して...ボトル洗って...ご飯食べて...いまのスキにシャワーして…またオムツ替えて... の昼夜を問わずの繰り返しは大変でした。

夜中、なかなか眠らない息子。
私が少しでも休めるようにと、息子を抱えて地下の部屋のカウチで次の授乳時間までコメディーセントラル(サウスパーク)を眺めていてくれた夫。
(そのせいか、息子は数カ月後には、サウスパークのテーマソングが聞こえると泣き止みご機嫌になる子供になった)。
出産後の妊婦は「眠らなくても頑張っちゃうホルモン」が出るそうだけど、もちろん夫にそれは出るはずも無い。病院での出産時に続き、再びケミカル効果無し、「オレも親だ!」の気合でずっと一緒に頑張った夫は、本当によくやっていたと思います。

産後のあの頃は、育児方法で気になることがあれば何かにつけてスマホで検索してリサーチしていたなぁ。。。
日本とアメリカでは情報ややり方、またその姿勢が違うものが沢山あり、また夫にも説明ができるようにと、日本/アメリカ両方の情報を日本語/英語で検索して。

その中でもとくに気になった事の一つは、母乳の出が悪かったこと。
あれこれ読んでは、頑張って水分をとったり、マッサージしたり、痛くなるまで搾乳したり、、、
それでも量が足りないと悲しくなってみたり。
でも気にしちゃだめだ!と自分に言い聞かせたりしたもんです。頭じゃ「気にするな。出ないならミルクでもいいんだから。」と分かったつもりでも、「できるものなら少しでも...」という気持ちがいつもあったので。

結局、私が一回の授乳量をたっぷり満たせることは稀にした無かったので、我が家は3・4ヶ月まで母乳とミルクの混合で過ごしました。
産後6週間で復帰した仕事にも、始めは搾乳機とアイスパックを携えて行っていましたが、やがてそれもストップし、5ヶ月くらいには完全にミルクだけになりました。

今になって思うけど、本当に本当に、子供が元気に大きくなってくれればどっちでも良いんですよね。
母乳/ミルクなんて二の次三の次。
母乳が出ない自分をダメだなんて思う必要は全く無く、もっと子供の事を見てあげて、子供が育つことに気持ちを注ぐことが大事だと。


そんなふうに産まれて育った息子も、今日で3歳になりました。
元気に大きくなってくれています。
何よりも、ハッピーな子供に育ってくれているのが一番良い事だと思っています。

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Happy Birthday☆今日は特別、クッキー!しかも特大♪


今日はおじいちゃん、おばあちゃん(夫の両親)を我が家へ呼んで、みんなで息子のお誕生日のお祝い。
おじいちゃん、おばあちゃんも大好きな息子。
みんなの愛を受けて、みんなに見守られ、豊かな心で育ってくれることが私の願いです。


*****
これで私の「アメリカ出産思い出話」のシリーズは終わりです。
思い出したことをつらつらと書いた連日の投稿にお付き合いいただきありがとうございます!

毎日書いていく中、読んでくれた知人友人や、SNSで繋がった方々から「私もそうだった」「私のはこんなだった」とコメントやメッセージを頂き、改めて、お産や育児は大きなイベントなのだと思いました。
また、その人それぞれのドラマや、その人それぞれの思いや方針、やり方があり、それにはもちろん子供は持たない選択や、アダプト(養子)を選ぶこと、シングルで育てていくことなども含まれ、個々のライフスタイルの中で様々であり十人十色なのだと、改めて実感しました。

育児となれば、出産よりも更に長丁場なうえ、育てる子供の個性もさらに様々。
育児の絶対の正解を追うよりも、取り囲む家族や環境、何よりも育てるその子供のことを見て、考えた方法で進めていくことが大切だと...
息子の誕生日をきっかけに書いた思い出話のブログから、そんなことを感じています。

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アメリカ出産思い出話~⑨退院の日、病院ガウンとさよなら

※2017年にロックランド郡NY州で息子を出産した時のことを書いた思い出話です。

前回までの話:
アメリカ出産思い出話~①産休そして陣痛で病院へ
アメリカ出産思い出話~②廊下をぐるぐるウロウロ、分娩室へ
アメリカ出産思い出話~③氷のかけら、期待のかけら、長丁場に消えて行く
アメリカ出産思い出話~④プッシュ!プッシュ!プッシュ!
アメリカ出産思い出話~⑤緊急オペ、母子ともに危険
アメリカ出産思い出話~⑥人生で一番痛い
アメリカ出産思い出話~⑦改めて息子に対面、アメリカのおくるみ事情
アメリカ出産思い出話~⑧帝王切開産後の入院3日間


入院した17日(月)から4日後、21日(金)の朝、私は病院からdischarge(退院)の書類などを渡されながら、帰宅するために荷物を纏めていました。
体はまだ痛いしお腹の傷口にはホチキス芯みたいなのついたままだけど、用心してシャワーを済ませ、入院中ずっと着ていた病院のガウンとスリッパから久々に自分の服に着替えて、サンダルを履いて。

そうしていると、見学で私のお産に立ち会った若い研修医が、改めてのお礼とお祝いの言葉を言いに、わざわざ部屋を訪ねて来てくれました。
彼曰く、見学をして良い経験と勉強になったと。
あれから3年経ったので、今ではもう医者としてどこかの病院でお産を診ているのかな... 元気に活躍されているといいな、と思います。


さて、あとはNICUにいる我が子の結果待ち。
その日の午前中に医師が最終チェックをして、問題なければ私達と一緒に退院、所見あれば息子のみ引き続きNICU入院、と聞いていたので。

しかし、お昼前になっても何も連絡が無く、私は「何かあったのか?」と気になりながら夫と病室で待機。
そうしているとナースから「先生が忙しくてチェックにもうしばらく時間がかかる」と情報が入ったので少し安心し、ならばもうお昼も済ませてしまおうと、夫と再び病院カフェのベジタリアンバーガーをリピートオーダーし、最後の〆としました。

そして、お昼を食べ終わる頃、息子の経過も良く一緒に退院できるとの朗報あり。
さっそく荷物を纏めて、NICUに我が子を迎えに。
小さいふにゃふにゃの子供を、大事に大事にベビー服に着替えさせ、ベビーカーにそっと乗せ、看護師さんたちにお礼を言って産科フロアを後にしました。

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初めて子供入りで押すベビーカー。気持ちよさそうに目を閉じてウトウトする息子が気になる新米母ちゃん。


病棟を出ると、外は猛暑。それでも、久々に感じる外の空気は気持ちよいものです。
夫がエントランスまで回してくれた車に乗り込み家路へ。
その時の感じはとても不思議なものでした。ここに来る時はお腹の中にいたものが、今は外に出て来て後部座席にいるのだから。もの凄い変化です。
そして、車内では後ろの息子が気になって仕方ない。泣けば何事かと気になる。静かになっても「息してるよね?」なんて気になる。

たぶん...夫は人生で一番用心深く運転していたのではないでしょうか。
後ろには生まれたばかりの我が子、横には助手席に乗り込むのもままならない、何かあれば切った腹が開いてもおかしくない生傷つきの嫁。「取り扱い注意」が2人も乗っているのだから。。。

出産では、本当にずっとつきっきりで一緒に頑張ってくれた夫。まさに二人三脚でした。
緊急手術の時、私は激痛と出血とで体を痛めつけていたけど、無痛分娩の麻酔と帝王切開の麻酔、痛み止めのモルヒネの連続で、ある意味気分はそこに在らず。身体的な苦痛も辛いけど、その間ずっと夫が感じていた精神的な苦痛は相当なストレスで大変だったのだろうと思います。

そんな私達2人のもとへ、毎日様子を見に来てくれてた夫両親、気遣って短時間だけなのにわざわざお見舞いに来てくれた親しいお友達数人の、お祝いや労いの言葉はとても励みになり、また良い気分転換になりました。ありがたいことです。
また、渡米してすぐの2年間、ロックランド郡のカレッジに通った際に出会った日本人留学生のお友達が、なんと偶然にもこの病院の産科でボランティアをしているという幸運もありました。
日本で看護師をしていたそのお友達は、赤ちゃん用品をNICUに併設した部屋で準備したり仕舞ったりするボランティアをしていたので、入院中に何度か会ってお喋りもできて、私もリフレッシュして元気が出ました。
そんな私を見ていると、夫も少しストレス解消になったと言ってくれたので、お友達の心遣いにも大感謝です♪


こうして病院を後にし、一瞬我が家へ立ち寄り。
家の様子をチェックし必要な物だけ持って、その後2週間お世話になる夫の実家へ向かったのでした。。。


もう少しだけ、次回へ続く。。。


オマケ:
産後の入院着にと、家から服を持参していましたが、結局は全く使わずじまい。
入院中は、病院から支給してもらえたガウン姿で退院まで過ごしたので。
アメリカの病院ガウンって、裸に大きな割烹着を着てるようなもん。前から羽織って後ろで紐をくくる作り。だから...ヒラりとなると、オシリが出るのですよ。
なので、陣痛中は2枚ガウンを渡されて1枚は普通に前から羽織り、もう1枚は後ろから羽織り、オシリが見えないようにしてフロアをウロウロしていました。
産後はガウンの上にもう一枚羽織れる長い上着(オシリ下までゆったり隠れる)を貰えたので、それを着て過ごしました。

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エアコンの効きが悪い病室にて...

しかしなぜオシリが出るデザインなのか...
確かな理由かどうかは分かりませんが、処置をする際に脱がせやすい&着せやすいからだとか。
色柄は色々あるようです。


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アメリカ出産思い出話~⑧帝王切開産後の入院3日間

※2017年にロックランド郡NY州で息子を出産した時のことを書いた思い出話です。

前回までの話:
アメリカ出産思い出話~①産休そして陣痛で病院へ
アメリカ出産思い出話~②廊下をぐるぐるウロウロ、分娩室へ
アメリカ出産思い出話~③氷のかけら、期待のかけら、長丁場に消えて行く
アメリカ出産思い出話~④プッシュ!プッシュ!プッシュ!
アメリカ出産思い出話~⑤緊急オペ、母子ともに危険
アメリカ出産思い出話~⑥人生で一番痛い
アメリカ出産思い出話~⑦改めて息子に対面、アメリカのおくるみ事情


緊急帝王切開での出産を経て、NICUの我が子の無事を確認し、やっとまとまった睡眠をとることが出来ました。
どうやらNYあたりはちょうど私が入院した頃から熱波に見舞われていたそうですが、外気に触れていないのでそれはよく分からず... ただ、病室の効きの悪い空調のおかげで、時折窓から"見る"だけの外の熱気を閉め切ったガラス窓のこちらでも感じさせられている感覚になりました。
結果的には、月曜日に入院、火曜日に帝王切開で出産、水・木曜日は入院生活、金曜日のお昼頃退院、という産後3日の入院期間でした。

出産の翌朝19日(水)、遂に口にすることを許された術後初めての食事は『クリアな飲み物のみ』。
この朝食が、17日(月)の朝に家で食べたマカロニサラダとシリアル以来のまる2日ぶりのやっとの”食事”だというのに、『クリアな飲み物のみ』というのも... 凄く… 哀れなもの。気分は「固形物を食わせろ!」だったけど、しかたないです。

入院中の食事は、入院患者以外の一般訪問者も利用できる病院内のカフェのメニューからオーダーして病室まで届けてもらう、というシステム。
一日3食、付き添いの夫と私の二人分が無料で提供されました。
『クリアな飲み物のみ』と指定された朝食には、メニューからアップルジュースと、ブロス(コンソメスープのような具の無い透明なスープ)をチョイス。クリア(透明)じゃないといけないってことは、オレンジジュースなんかはNGなので選択肢は限られていたけど。

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食欲以外はまだヨレヨレボサボサ。点滴や色んなもの、脚のむくみ取り機みたいなのもついて、まだ歩き回れない時だったので、食べ物も非常につまらない透明な飲み物だけの朝食+作り笑顔。


その後「クリアなもの」は解除され、お昼にはたしかヨーグルトとプルーンジュース、夜くらいから固形がOK、というかんじで徐々に普通の食事を選べるようになっていき、翌日からは何も気にせず好きな物をオーダーしていた気がします。
入院中にお通じが無いと退院させてもらえない&モルヒネは便秘になりやすい、と聞いたので、その対策のためにプルーンジュースは毎日飲んでいました。

この頃からモルヒネは終わって点滴もはずれ、痛み止めは飲み薬タイプのもっと軽いものに。
痛み止めの薬をもらう場合は、"痛みレベルのシート"にどれくらい痛いのかを示してそれに見合っただけの薬をもらう自己申告制。なんか心地悪いなぁ~もうむり!死ぬ!までの10段階くらいだったかな。
以下

Reassessing the assessment of pain: how the numeric scale became so popular in health care - WHYY

より拝借。

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こんな表を見てチェックした




話は戻りこの日の朝のこと。
朝食が取れて他に異常もなかったので、体についていた物が少しずつ外されてちょっとだけ身軽になりました。
起きあがって少しずつ歩き始めるように言われたけど、まずはベッドで起きるのに一苦労。
そりゃそうだ、腹筋は使い物にならないんだから。お腹切るって大変です。
ベッドを起こしておいて、仰向けから横向きなり、まずは脚をベッドの外へ出してそしてベッドの手すりにしがみつきながら上体を起こして... 普段の生活でも意識しないうちにどれだけお腹の筋肉が役に立っていたのか、はじめて実感しました。

見聞きしたところによると、日本は通常の出産でもしばらく入院して、その間に赤ちゃんのお世話の仕方を教わるような、指導の時間も組み込まれているようで。
でも、私が経験したアメリカでの入院にはそのような「では、今日は今からこの練習をします。これをお教えします。」みたいな時間は無かったです。
時々病室にやってくるナースが、「何か困ったことはない?あれば言ってね。」というかんじ。

そんな入院時期を経て、アメリカでは通常出産なら翌日にでも退院させられるようです。帝王切開だった私は、出産から3日目に退院しました。
その3日間にした事… 覚えているのは、ハラキリの痛みで直立できない体で一歩一歩廊下を進み、数時間おきに自分の病室とNICUを往復して、我が子を抱っこし母乳を与えに行っていたこと。
噂では欧米人は骨盤のつくりが私らのとは違うとかで、お産直後でも早期にスタスタ歩けるもんらしいですが(ほんとか?)、マックスまでいきんどいて腹切りしたアジア人の腹腰まわりはボロボロであります。
出産翌日の朝、まだ点滴が私に繋がっていた時は"ガラガラ"(点滴をぶら下げておくヤツ)を押しながらNICUを往復したけど、ガラガラにしがみついてカメより遅い足取りでした。

我が子に会うため、「母ちゃん来たよー。起きてるかなー?ネンネかなー?」と通ったNICU
幸い息子の経過は順調で、会いに行く度に小さな体についていた呼吸器や点滴などのコードも減っていました。
つきっきりで息子のお世話して下さるスタッフさんから、元気な状態である事を聞いて安心。とても優しくて親切なNICUの看護師さん達には、赤ちゃんの抱き方、ゲップのさせ方、スワドル(おくるみ)の巻き方や沐浴の仕方など、たくさん質問して教えてもらいました。

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NICUには個室の授乳室もあったので、そこで親子三人ゆったりと過ごす静かな時間が幸せだった。



こうしてゆったり過ごしつつ、歩くのも何をするのもそんなスロースピードなので、NICUまで行って授乳して帰ってくるだけでもそれなりの所要時間。
それ以外の時間には痛み止めの薬を貰ったり、血圧などのチェックでナースが回ってきたり、ご飯の時間になったり、母乳の出が悪かったのでマッサージをしたり搾乳機を借りて絞ってみたり、とそんな事をしていたら一日、そして三日間の入院なんて想像以上にあっという間でした。


あともう二つ。
一つはアメリカでの出産の入院中に必要なのが子供の名前。
退院までに、名前の届け出をして&出生証明書を貰うための書類を病院に発行してもらわなければなりません。
我が家は、性別は産まれるまで知らないようにしていたので、出産時期に先駆けて男女2パターンの名前を決めており、そのうちの男の子用の名前を変更なく予定通り登録しました。

もう一つは、子供の保険登録の手続き。
日本のような皆が自動的に受けられる健康保険の制度がないアメリカでは、個々が保険の調達をします(職場が保険を用意してくれる場合は仕事を通しての加入。用意がない場合は、個人が保険会社から直接購入するかたちで加入します。)
産まれた子供分は、夫が保険会社と何度もひっきりなしに連絡を取ってくれて(アメリカでこの手の事は、あれこれ時間と手間がかかる)加入手続きをしてくれました。
退院してもまたすぐ新生児の定期健診が始まるし、子供に万が一のことがあった場合に対応できるよう、速やかな加入手続きが必要なのです。


そんなこんなをして過ごした産後3日。
愛おしい我が子に会うため、そして出が悪いものの少しでも与えられるものがあるのならと絞り出した少量の乳を携え、笑うのも痛いハラキリの体でNICUを往復したこと、
名前と保険の登録にあくせくしたこと(とくに夫が)、
カフェメニューから注文した、ベジタリアンバーガー(豆製品のパテが挟まっている)がなかなか美味しくて夫とリピートしたこと、
そのバーガーの中に挟まっている野菜の内容(トマトやオニオンがあったりなかったり)や、横のピクルスやケチャップがついてきたりついてこなかったり... が毎回違っていたのが"consistently inconsistent"で、そのテキトー具合が面白かったこと、
クレームまで入れたけど病棟のそのあたりで故障があったらしく、いつまでたっても効きが悪かったエアコンのこと、、、

そんな思い出が詰まった、産後の入院。
私の体の方は経過も良いとのことで、このまま間もなく退院です。
引き続きNICUにいる息子が同時に退院して一緒に帰宅できるかどうかは、退院当日朝の検査結果しだい。

次回に続く。。。

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アメリカ出産思い出話~⑦改めて息子に対面、アメリカのおくるみ事情

※2017年にロックランド郡NY州で息子を出産した時のことを書いた思い出話です。

前回までの話:
アメリカ出産思い出話~①産休そして陣痛で病院へ
アメリカ出産思い出話~②廊下をぐるぐるウロウロ、分娩室へ
アメリカ出産思い出話~③氷のかけら、期待のかけら、長丁場に消えて行く
アメリカ出産思い出話~④プッシュ!プッシュ!プッシュ!
アメリカ出産思い出話~⑤緊急オペ、母子ともに危険
アメリカ出産思い出話~⑥人生で一番痛い


ここまでさんざん私が"痛かった話"ばかり書いてきましたが、今日は、やっと息子の安否を確認できて再び対面できた時の話を。

モルヒネが効き痛みも体の状態も落ち着き、私が経過観察の仮部屋から一般の病室に移れたのが18日(火)(入院2日目)の夕方でした。
点滴やら何やら、色んなものがくっついた寝たきり状態だったので、病室まではベッドごとの移動でしたが、その途中に息子が入っているNICU(新生児集中治療室)にも寄ってもらって改めて我が子の姿を確認できました。

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生まれた直後、呼吸を止めてしまった息子には、呼吸器や心拍などのバイタルをチェックするための色んな管やコードがくっ付けられていたので、そんな我が子の姿は痛々しい。
でも、新生児ベッドの上で手足をゆっくりゴソゴソしたり体をねじったりして、元気に動いている姿を見て、また病院側からの説明で息子の状態は良いと聞き、やっと落ち着いて息子への愛おしさを感じることができました。

改めて、我が子はどんなお顔かしら?誰に似てる?と少し眺めて見たけど...
正直なところ「顔ぱんぱんだし(新生児はそんなもん)、誰にも似て無くない?」が私の感想。
足の指がよく動いて、パカっ!と開くことができる以外、自分の面影は見つけられませんでした。


NICU内でも私はベッドに寝たきりだったので、ここでは"寝たきり同士"横並びで息子をしばし眺め、産まれたての小さい「グー」の手をちょんちょんと触るだけでしたが、あたたかくてふわふわの我が子の肌を感じ、「よく頑張ったね。またすぐ会いに来るよ♪」と伝えてNICUを後にしました。
赤い肌でムチムチしたその姿を見たからか、なんとなく「この子は大丈夫」と感じ、「また明日ゆっくり会いに来よう。きっとこのまま回復して元気になる。」と思いながら。

産後の病室は、前日からさっきの手術まで滞在していた産科の同じフロアの、ナースセンターを境にした向こう側です。前日、子宮口が開くようにと、廊下を何度もウロウロと歩き回ったところ。
自分がそんな事をしていたのを思い出すと、たった一日前のことがとても昔のように感じられました。
「プッシュして出すためにあれだけ歩き回ったけど、結局は帝王切開で出すことになるとはねぇ...」


病室は、個室にバスルーム(シャワー)つきで、ビジネスホテルのような部屋です。
ここでも、夫はカウチベッドで泊まり込みで付き添ってくれました。
産後の病室に移ってはじめの夜は、私にもまだ痛み止めの点滴など、色んな物がくっついて起きあがれない状態。夜中には定期的にナースが容態のチェックに入室していました。
寝心地の悪いカウチベッドと、出入りするナースの気配、そして効きの悪い空調による暑苦しさで、またもや夫は眠りの浅い夜を過ごしたようです。
私は... モルヒネのおかげでふわふわウトウト。この部屋暑いなぁ...と思った以外、この夜のことはあまり記憶がありません。


ところで、なんでアメリカの病院の新生児たちの多くは同じおくるみ(ブランケット)に包まれているだろうか...
フランネルの白地にブルー&ピンクのストライプのやつ。

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我が子も例に漏れず同じブランケット。お鼻の下には、呼吸器を固定しておくためのテープがついていた頃。新生児はお顔が浮腫んでいるので更にムッチムチだった。


ググッてみると、こんなん見つけました。

abc7.com

多くの赤ちゃんが包まれているのは、イリノイ州のMedlineという医療用品を製造販売する会社が作っているブランケットだそうです。
もともと、お肉屋さんのエプロンを作っていた創業者が、医師の手術着も作るようになり、当時(50年代頃)使われていたベージュ一色でつまらないデザインの新生児用ブランケットをもっとハッピーなイメージにしたいと考え、この白地にブルー&ピンクのストライプのブランケットを作ったとあります。
ハッピーなイメージがよかったのかもしれませんね、いつしかこのブランケットが「新生児といえば」と言うくらい、産後のイメージに定着し、今でもアメリカ中の病院の使われる定番ブランケットとなったのだそうです。
アメリカだけでなく、世界中にも供給しているブランケットらしいですが...日本でも使われているのでしょうか?


さて、入院から2日かけて出産を終え、無事に我が子とも対面を果たしました。
翌日からはハラキリの体にムチうって、病室~NICU間をヨロヨロと往復する日々が始まります。

次回に続く。。。

 

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アメリカ出産思い出話~⑥人生で一番痛い

※2017年にロックランド郡NY州で息子を出産した時のことを書いた思い出話です。

前回までの話:
アメリカ出産思い出話~①産休そして陣痛で病院へ
アメリカ出産思い出話~②廊下をぐるぐるウロウロ、分娩室へ
アメリカ出産思い出話~③氷のかけら、期待のかけら、長丁場に消えて行く
アメリカ出産思い出話~④プッシュ!プッシュ!プッシュ!
アメリカ出産思い出話~⑤緊急オペ、母子ともに危険


夫の話によると、手術室からERそばの待機部屋へ移されてきた私は、なかなか哀れな様子だったらしい。

写真だけ見ると...ちょっとコミカルだし、あまりにヨレヨレで酷い姿なのでブログに載せてよいものやら?と思ったのだけど、、、
手術室からの生還。

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生気ゼロ。
ほんまにガタガタ震えていたので、頭までタオルやらなんやらで包まれていました。

(にしても、なんでこの瞬間の写真を撮っていたのだろうか?私が撮ってくれと頼んだらしいのだけど、覚えてない。)

夫と、お見舞いに来てくれた夫の両親に再会し、安心しました。
この部屋に運ばれて少しの間眠りについたようです。。。


私が手術室から出てくるまで、昨日からの付き添いでの疲れと、「子供も嫁も喪うかもしれない....」という心配で、夫のストレスは大変なものだったと思います。
自分は一人廊下で待つように言われ、二人ともが危険らしいがどうなるのか分からない状況だったのですから。
後に、夫はこのERそばの待機室で待つよう言われ、ここで座ってまっていたそうですが、あまりに心配でストレスになっている様子を産科受付スタッフさんが気にかけて下さり、「ずっと何も食べてないんでしょ。ご飯をオーダーしたから食べて落ち着いて。」と、食事を用意してくれていたそうです。
ハンバーガーとポテトのプレートとドリンクだったそうで、夫は食べる気分では無かったそうですが、私の戻りを待つ間にちびりちびりとポテトをつまんでいたと言っていました。


タオルと毛布に包まれた眠りから私を目覚めさせたのは、迫りくる激痛でした。
寒さと震えはおさまっていたけど、今度はあまりの痛さで眠ってなんかいられない。
陣痛以来、再びの悶えにタオルも毛布も邪魔くさい。包まっていたのを全てはぎ取って痛みにのたうち回る時間がはじまりました。

ハラキリ手術の麻酔が切れてきたのでしょう。お腹周りが陣痛よりも痛い、後にも先にも、私の人生で一番痛い時間。
部屋はいくつかのベッドが並ぶ相部屋。それをカーテンで仕切ってあるだけなので、隣やそのまた隣から、他の妊婦さんやご家族の話し声も聞こえます。
初めはそれも気にかけて、唸り悶え苦しむ声も押し殺そうとしていたけど、あの激痛ではとうてい無理。
冷や汗で息も苦しく、会話なんてできないし、気を失いそうなくらいの激痛です。自分では痛みには強い方だと思っていたけど、これは全く別物のレベル。

ナースコールで痛み止めをお願いし、モルヒネを持って来てもらえました。
モルヒネは点滴のようなかんじでセットされ、5分以上の間隔をあけて押すと注入される仕組みになったボタンも手元に置かれて。
激痛に耐えながら「次のモルヒネショットまで5分待つ」のの長いことといったら。
しばらくの間はなかなか痛み止めの効き目も出て来ず、「効いてなよー!もっときついのもらいたいー!」と夫にグチりつつ、手元のスマホで時間を確認しながら繰り返しボタンを押していました。

そして、まだまだ激痛が続く中、産後の"後処理"をしに、とやってきたナース。
激痛に悶える私の縫合した傷口を確認し、そして下っ腹をぎゅーーーーー‼‼‼
あぁーもう、3年経った今でも思い出しただけで痛い。。。
その瞬間、"あー!"も"うー!"も出ない。声すら出せない痛さにただただ悶絶しました。

英語にpainよりももっと酷い痛み&苦しみを表す言葉で、"agony"って単語があります。
この時の体験は、紛れもなく"agony"、なんなら"extreme agony" "absolute agony" "insane agony" でした。


続く激痛の疲れと、ナースの処置にトドメをさされ、私はベッドの上で苦しむだけの廃人になってしまいました。

そして徐々に、やっとモルヒネが効き始めたようで、寝ぼけたような感覚で夫と少しお喋りをしてまた少し眠りについたそうです。
その時の私、少し"ハイ"だったようですが、自分では覚えていません(笑)
どうせならこの時の動画でも撮っておいてくれればよかったのに.... さっきの頭にタオル巻かれた姿じゃなくて。

どれだけ眠ったのか分からないけど、少ししてまた目が覚めた時には、激痛も感じることなく体はやっと落ち着いてきていました。

これが恐らく、入院2日目、18日(火)の夕方のこと。
やっとここから個室の病室に移動します。

ここまで自分のことばかり書きましたが、肝心な我が子はというと、手術室から連れ出されて以来、NICU(新生児集中治療室)でケア中。
個室へ移動する途中、NICUを経由してもらい、そこで改めて我が子に対面することとなりました。


続きは次回。。。

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アメリカ出産思い出話~⑤緊急オペ、母子ともに危険

※2017年にロックランド郡NY州で息子を出産した時のことを書いた思い出話です。

前回までの話:
アメリカ出産思い出話~①産休そして陣痛で病院へ
アメリカ出産思い出話~②廊下をぐるぐるウロウロ、分娩室へ
アメリカ出産思い出話~③氷のかけら、期待のかけら、長丁場に消えて行く
アメリカ出産思い出話~④プッシュ!プッシュ!プッシュ!


胎児の状態が危険になってきたため、緊急帝王切開に切り替わったのは、入院から丸一日を過ぎたとき。
オペの準備が早急に整えられ、私は手術室に運ばれて行きました。

ここから先は、まな板の鯉どころか、マグロ。
いきみ続けた腹筋と足腰はヨレヨレ。ベッドから冷たい手術台にゴロンと移され、丸裸に再び色んな物をつけられ麻酔を開始。
胸から下は布の仕切りで見えなくて麻酔が効いてきているけど、胸から上は普通なので、周りも見えるし手術の様子も聞こえてくる。
仕切りの向こうの体に痛みは無いけど、何かされている感覚はある。不思議なかんじだったなぁ。

手術着にマスクとキャップを付けた夫が、仕切りのこちら、私の横にいてくれた。
「どんなかんじ?」「もう切開したのかなぁ?」「あ、なんか出されてるかんじ」
と、夫と会話をしながら手術が進み、

仕切りの向こうの様子と、お腹あたりでの「出た」感覚で、赤ちゃんが取り出された瞬間が分かりました。
そして向こう側からの声で、「男の子ですよ!」と。

私は、あぁやっと生まれてくれた!よかった!と思いながら、横の夫には「あはは、残念だったね。男の子だってさ。」と。
我が家は、産まれるまで子供の性別は敢えて知らないようにしていて、夫は女の子を望んでいたから。

でも...
あれ?泣かない...ね。

「ねぇ、静かだね。泣かないね。」

"オギャー!"っていうのを予想していたのに反して、手術室は静かで、仕切りの向こうからは引き続きの処置の音が聞こえるだけ。

何?どうしたの?赤ちゃんもうどこか連れて行かれたの?そこには居ないの?

横の夫も同じことを考えていたと思う。
その静かな時間はとてつもなく長く、不安で、心配でしかたなかった。たぶん、1、2分間の事だったのだろうけど。


そして、急にやっと聞こえて来た"オギャー!"の声。
仕切りの向こう側にいたのか、そしてやっと泣いてくれた...と、ほっとしました。

分娩でいきんでそこまで来ていたのに、なかなか出て来てくれなかったのは、胎児の首に臍の緒が二重に巻き付いてのが原因。
いくらプッシュしてもひっかかって出てこれなかったみたい。


まだ手術台に横たわったままの私でしたが、ナースが臍の緒を切っておくるみに包んだ生まれたての息子を私の胸元まで連れて来てくれて、やっとご対面。
朦朧とした仰向けのまま、こんな"小さなふにゃふにゃ"をどうやって抱いたら良いのか...落とさないように、壊さないように... と思いつつも、
こんなに"大きくてしっかりの赤ちゃん"がお腹の中にいたのか... これ本当に私から出てきたんだよね...  と、ごちゃ混ぜの妙な気持ちになりました。

"涙で赤子を抱くお母さん"をお産のシーンなどで見てイメージしていたけど、私はそんなかんじじゃなかったなぁ... 頭がぼぉ~っとしていたからか、涙の感動シーンにはなりませんでした。とても嬉しくはあったけど。

楽しみにしていた子供の姿を眺める時間もつかの間、
臍の緒を切ったのに再び呼吸を止めた息子。胸元で抱いていた我が子はナースに取り上げられて、急いでNICU(新生児集中治療室)へ送られて行きました。

同じ頃、仕切りの向こうで続いていた術後の処置の様子が慌ただしくなってきて、手術台がギシギシと揺れ、お腹周りが圧迫されてマッサージされているのを感じました。横にいた夫の表情がどんどん緊張してくるのも分かりました。
自分では何が起きているのかさっぱり分かっていなかったけど、付き添ってくれている夫にこれ以上辛い心配を負わせてはいけないと思い、「私は大丈夫だよ!動けない以外はほら、なんともないから!すぐに終わるよ!」と夫に話しかけて励まそうとしていたのを覚えています。

ほどなくして再びナースが仕切りのこちらに現れ、夫は手術室から出るよう告げられ、たぶん私に「がんばれよ!外で待ってるから。」みたいなことを言って退室して行ったと思います。
私はだいぶ朦朧としていたので事態が理解できていなかったけど、後で聞くところによると、私の出血が止まらず危険になっていたそうです。

生まれた子供は息をしないからNICUへ、嫁は出血が止まらず自分は手術室から追い出され...
どちらもどうなるか分からない、どちらにも会えない、独り廊下で待たされた夫は気が気じゃなかったと思います。

続く腹部のマッサージと処置、私は全身がどんどん寒くなり震えだし、意識が少しずつ遠退き始めました。
そんな中、手術室にいた一人のスタッフ(この日の麻酔医だったかな?)が傍に寄って来て、私の名前は何か?と訊いてきます。
体が重く意識もぼぉ~としていた私は「何を今更聞くのか?」と思いながら自分の名前を答えました。
続いてその医師は、「それはどこの国の名前?」「どんな意味がある名前?」と質問攻め。
声を出すこと、喋る気力も無くなっていたので、「答えるのしんどいよぉ~。こんな時になに~?放っておいてくれ~。」と思いながらも、「日本の名前」「同じ名前でもつく漢字によって意味が変わるんだ」「私の感じの意味はウンダラカンダラ...... 」
律義にお答えしました。
今思えば、話しかけ続けることで私の意識を確認していたのかな...と思うけど、その場ではとってもダルいとしか思わなかった。なんとか答えたのも、うわ言のようだったかもしれません。

そうこうしていると、処置が無事に終わっていったようで、震えが止まらない私の体がやっとガウンや毛布で包まれていくのを感じました。
その頃にはもう、目を開けているのもままならず、目を閉じて再びなされるがまま。

一瞬眠ったのでしょうね、次に気づいた時には、震える体を頭にまでタオルを被された状態で包まれ、術後の経過を見るための仮の部屋へ搬入された時でした。
そこで待っていた夫と、夫の両親と、再開です。


容態が急変すればすぐに対応できるよう、ER(救命救急室)入口の向かいに位置した小さい相部屋スペースでした。
夫たちに会えて気持ちは安心するも、体は寒いまま。
体が勝手にガッタガタと震えるのを感じながら... 少しずつ落ち着くにつれ、再び私は少し眠っていたようです。

そして目覚める頃には、またひとヤマ試練がやってくるのでした。

 

次回へ続く。。。

 

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